かえるの日記

「ミルク壺に落ちたカエルは必死になって脚を動かしました。するとミルクはバターになって、カエルは外に出ることができました。」 でも、落ちたらそのまま浮かんでて、おなかすいたらミルク飲んで待ってたら、だれかがミルクを飲むために壺を傾けてくれるかも?

長田神社

今日は外反母趾の治療に、整体院に行ってきた。だんだんと治療の間隔が長くなってきている。

整体院のそばに長田神社という神社がある。立派なお社で、事代主神という神さまをお祭りしてある、由緒ある神社なのだそうだ。

治療の初日にお参りをし、その後は鳥居のところでご挨拶をするだけにしていたのだが、歩きながら見ていると、通りすがりの老若男女が鳥居のところで足を止めて、拝んだりご挨拶していく。
あるときなど、ランナーのようないでたちの若いお兄さんが、乗っていた自転車を鳥居のところでおりて自転車を近くにとめ、そこで本堂に向かって二礼二拍手一礼して、くるっと左向け左をしたと思ったら、とっとっとっ、と神社伝いの細い道を走り出した。ジョギング前に神様にご挨拶してたんだな、と思った。

本当に地元の人たちに大事にされている神社であり神さまなんだと思った。

こういうところに、日本の神さまは、いらっしゃる。

2月の野田ライブラリをおそまきながら聞いた。「なぜスピリチュアリティか」というお話で、2011年のものだ。内容を詳しくは書かないでおこうと思うが、その中で先生が「スピリチュアリティがないとどうなるか」としてお話されていたことが、最近急速に、たくさんの人々に起きているように感じる。アドラー心理学の世界でもそうだし、それ以外の世間でもそうだと思う。

最後の方で先生は、ユングが「心理療法の仕事はクライエントさんをその人の本来持っている固有の宗教に連れ戻すことだ」と言ったとお話されている。以前、先生の生前にこれをうかがったときは「そんなモノかな?」思った程度だったが、今回野田ライブラリで聞いて、あらためてその言葉の意味がしみてきた。
本当にそうだと思う。

スピリチュアリティ」というのは、人間を超えた存在を信じて、そうした存在と向き合うことに価値を置く生き方のことだ。世間で言われている「スピリチュアル」というあやしげな言葉とは少し違うかも知れない。その、人間を超えた存在が、人によっては神さまであったり仏さまであったり、ご先祖さまであったり、また「世界」とか「存在」とか「ハイヤーパワー」とか、そのように呼ぶ人もいる。「宗教」というのはそうした生き方のひとつなのだと私は考えている。

ユングはヨーロッパ人だから、「宗教」というのは持っていてあたりまえの世界で生活していた。だが今の日本で「宗教」というと、ちょっと煙たがられたりうさんくさいモノだと思われたりするような風潮がある。でも、私たち日本人の暮らしを少し見直してみると、生まれた時にはお宮参りに連れて行ってもらい、土地の神さまに「この子をよろしくお願いします」と親がご挨拶をする。七五三の祝いをする。毎年のように初詣をし、受験の時にもお参りに行く。厄年にはお祓いをしてもらい、子どもができれば「この子をよろしくお願いします」とお宮参りに連れて行く。

ご飯のときにはお箸を自分と食事の間におく。それは、神さまと自分の間の境界を作っているのだと聞いたことがある。食事は神さまに属するものなのだそうだ。それを「いただきます」と言って、お箸をとって、いただく。

日本ではこのような暮らし方そのものが、ユングのいう「宗教」にあたるのではないかと思った。アドラー心理学風に考えると、それは人間を超えた大きな世界への所属、ということになるのではないか。世界との所属を失った人は、自分か他人しか信じられなくなる。それはとても生きづらいだろう。そして問題にぶつかり、カウンセリングに来る。
だから、「心理療法の仕事はその人の本来持っている宗教に連れ戻すこと」ということになるのだ。

野田先生はたぶんこの録音がされた2011年頃から、日本の慣習や伝統を大切にすることを重要視され、いろいろなところでそのお話をされていたように覚えている。それは単に「右より」とか「保守的」になったわけではなく、私たちを「本来固有の宗教」に連れ戻そうとし、そのような暮らし方を未来の日本人に遺そうとされていたのではないかと思っている。

私もそのような仕事がしたいと思う。

長田神社のような神社が、どうか末永く残りますように。

そういう神社にお参りする心を持つ人々が、増えていきますように。